2009年09月18日
平和データベース「市民が描いた原爆の絵」
被爆者の方がご自身の体験を描いた「市民が描いた原爆の絵」を検索できます。
主に昭和49年と50年、そして平成14年に収集した絵の中から、公開しています。
これらの絵は市民の手による原爆被災の記録であり、核兵器が人間に何をもたらすかを示す貴重な証言です。
被爆前の街のようすや市民生活などを描いた「わがなつかしの広島」の絵もあわせて公開しています。
http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDB060index.jsp
主に昭和49年と50年、そして平成14年に収集した絵の中から、公開しています。
これらの絵は市民の手による原爆被災の記録であり、核兵器が人間に何をもたらすかを示す貴重な証言です。
被爆前の街のようすや市民生活などを描いた「わがなつかしの広島」の絵もあわせて公開しています。
http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDB060index.jsp
2009年09月11日
第2回 ピースウオークひろしまツーデー
2009年9月21日(祝)、22日(祝)(申込期間:~2009年09月05日)
申込期間 ~2009年09月05日
開催場所 広島県 広島市基町・中央公園
郵便番号 〒113-8530
事務局住所 東京都文京区湯島1-2-4 (社)日本ウオーキング協会内
ピースウオークひろしまツーデー実行委員会事務局
電話番号 03-5256-7855
FAX番号 03-5256-7856
PR 世界平和に貢献する、水と緑と文化のまち「国際平和文化都市・ひろしま」を歩こう!
コースおよび当日案内 【9月21日(祝)広島南部周回コース(500選34-2)】
●40km
受付時間…6:30
スタート…7:00
コース概要・見どころ…広島デルタの商工地帯、宇品島、マツダ本社工場、広島新球場、縮景園、県立美術館、広島城
●25km
受付時間…7:00
スタート…8:00
コース概要・見どころ…広島デルタの商工地帯、宇品島、マツダ本社工場、広島新球場、縮景園、県立美術館、広島城
●10km
受付時間…8:30
スタート…9:00
コース概要・見どころ…平和大通り、新球場、縮景園、県立美術館、広島城
【9月22日(祝)広島北部周回コース(500選34-2・34-7)】
●30km
受付時間…6:30
スタート…7:00
コース概要・見どころ…平和大通り、比治山トンネル、JR天神川
、二葉の里、広島ビッグウエーブ、不動院、安芸大橋、中広橋
●15km
受付時間…7:00
スタート…8:00
コース概要・見どころ…平和大通り、比治山トンネル、平和橋、JR広島駅、広島東照宮、二葉の里、新こうへい橋、空鞘橋
●10km
受付時間…8:00
スタート…9:00
コース概要・見どころ…三篠橋、横川橋、平和記念公園、原爆ドーム(500選34-2のみ)
※ゴールは、会場へ16:00までに到着して下さい。
参加資格 国籍、年齢、性別等一切問いません。ただし、小学生以下は保護者または引率者、身体の不自由な方は同伴者が必要です。
参加費 【事前申込】
大人1,500円、中高生800円、小学生400円、幼児無料
【当日受付】
大人2,000円、中高生1,000円、小学生500円、幼児無料
※参加費は1日だけ参加でも、2日間の参加でも同額です。
※参加を取り消されても、参加費はお返しできません。
事前申込期限 2009年9月5日(土)
※大会誌の参加者名簿掲載は、8月31日着分までとします。
申込み方法 所定の参加申込書に必要事項を記入のうえ、最寄りの郵便局からお申込ください。
参加記念品 大会誌、ゼッケン、コースマップ、参加バッチ、記念品をお渡しします。
携行品 参加証、弁当、水筒、コップ、雨具、帽子、タオル、健康保険証等、各自で準備してください。
※お手荷物は受付会場で預かります。
※お弁当を斡旋します。(9月21日、22日、当日受付で申込み、昼食場所でお渡しします。)
免責の範囲 参加者は」事前に健康診断を受けて万全な健康管理のもとに参加して下さい。万一事故が発生した場合は、主催者が加入している傷害保険の範囲内でおよび応急処置以外の責任は負いません。
http://www.sportsentry.ne.jp/event.php?tid=19676
申込期間 ~2009年09月05日
開催場所 広島県 広島市基町・中央公園
郵便番号 〒113-8530
事務局住所 東京都文京区湯島1-2-4 (社)日本ウオーキング協会内
ピースウオークひろしまツーデー実行委員会事務局
電話番号 03-5256-7855
FAX番号 03-5256-7856
PR 世界平和に貢献する、水と緑と文化のまち「国際平和文化都市・ひろしま」を歩こう!
コースおよび当日案内 【9月21日(祝)広島南部周回コース(500選34-2)】
●40km
受付時間…6:30
スタート…7:00
コース概要・見どころ…広島デルタの商工地帯、宇品島、マツダ本社工場、広島新球場、縮景園、県立美術館、広島城
●25km
受付時間…7:00
スタート…8:00
コース概要・見どころ…広島デルタの商工地帯、宇品島、マツダ本社工場、広島新球場、縮景園、県立美術館、広島城
●10km
受付時間…8:30
スタート…9:00
コース概要・見どころ…平和大通り、新球場、縮景園、県立美術館、広島城
【9月22日(祝)広島北部周回コース(500選34-2・34-7)】
●30km
受付時間…6:30
スタート…7:00
コース概要・見どころ…平和大通り、比治山トンネル、JR天神川
、二葉の里、広島ビッグウエーブ、不動院、安芸大橋、中広橋
●15km
受付時間…7:00
スタート…8:00
コース概要・見どころ…平和大通り、比治山トンネル、平和橋、JR広島駅、広島東照宮、二葉の里、新こうへい橋、空鞘橋
●10km
受付時間…8:00
スタート…9:00
コース概要・見どころ…三篠橋、横川橋、平和記念公園、原爆ドーム(500選34-2のみ)
※ゴールは、会場へ16:00までに到着して下さい。
参加資格 国籍、年齢、性別等一切問いません。ただし、小学生以下は保護者または引率者、身体の不自由な方は同伴者が必要です。
参加費 【事前申込】
大人1,500円、中高生800円、小学生400円、幼児無料
【当日受付】
大人2,000円、中高生1,000円、小学生500円、幼児無料
※参加費は1日だけ参加でも、2日間の参加でも同額です。
※参加を取り消されても、参加費はお返しできません。
事前申込期限 2009年9月5日(土)
※大会誌の参加者名簿掲載は、8月31日着分までとします。
申込み方法 所定の参加申込書に必要事項を記入のうえ、最寄りの郵便局からお申込ください。
参加記念品 大会誌、ゼッケン、コースマップ、参加バッチ、記念品をお渡しします。
携行品 参加証、弁当、水筒、コップ、雨具、帽子、タオル、健康保険証等、各自で準備してください。
※お手荷物は受付会場で預かります。
※お弁当を斡旋します。(9月21日、22日、当日受付で申込み、昼食場所でお渡しします。)
免責の範囲 参加者は」事前に健康診断を受けて万全な健康管理のもとに参加して下さい。万一事故が発生した場合は、主催者が加入している傷害保険の範囲内でおよび応急処置以外の責任は負いません。
http://www.sportsentry.ne.jp/event.php?tid=19676
2009年08月23日
あなたがあなたであるために 山岡ミチコさん
http://info.linkclub.or.jp/nl/2005_10/anata.html
ヒロシマからアメリカ、そして世界へ。
原爆投下から10年が経った1955年5月、
25人の若き日本女性が、アメリカへ旅立った。
彼女たちは、広島で被爆して顔や体にケロイドを負ったヒロシマ・メイデン(原爆乙女)。
この日から約1年半にわたってアメリカ東海岸に滞在し、
延べ133回の整形手術を受けて帰国した。
この治療を可能にしたキーパーソンが、2人いる。
広島・流川教会の谷本清牧師と、米国のジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏だ。
ともに強い信念をもち、終生、国境を超えて平和活動に尽くした人物だ。
ヒロシマ・メイデンのひとりだった山岡ミチコさんは、
被爆体験の貴重な語り部として活動している。
山岡さんのお話をうかがいながら、当時を振り返る。
2005年夏、ヒロシマで。
山岡ミチコさん
「私は多くの人が酷い亡くなり方をしたのを、この目で見ました。人類が同じ過ちを犯さないために、こうしてお話ししてるんですよ。平和を当たり前と思わないで欲しいんです。私が思うに、過去の戦争でどちらが悪かったと決めつけるとか、やられたらやり返すという考え方をするのはいけない。両方の国が手をつないで、核兵器のない世の中にしていくべきなんです。みなさんには自分の国に帰ってからも、このことを考えるようにお願いします」
米国ワシントンDC州から来日した高校生たちが、真剣に耳を傾けている。声の主は、被爆証言者の山岡ミチコさんだ。/P>
日本人にはもちろん、海外から広島を訪れる人々にも、被爆体験を語っている。米国の高校生には誤解を与えて気持ちを傷つけることのないよう気遣ってはいるが、それでも被爆の実情に大変なショックを受けたり、米国の政策は間違っていないと興奮したりする者もいるという。
山岡さんと米国との個人的な関わりは、ヒロシマ・メイデン(原爆乙女)のひとりとして渡米した1955年に遡る。
ヒロシマの代表として平和を訴える。
谷本清牧師
山岡さんは15歳で被爆して以来、母と2人、貧困と差別に苦しんだ。家もなくなり、医者にもかかれなかった。就職もままならず、許嫁とは破談になってしまった。山岡さんのように体と心に傷を負い、ひっそりと暮らしていた若い女性が、当時の広島にはたくさんいた。
そんな被爆者たちの精神的支柱となっていたのが、自らも家族も被爆した、流川教会の谷本清牧師(1909~1986年)である。「広島は人類初の原爆の被爆地という立場から、世界平和に永遠に貢献する使命がある」と考え、後に(財)ヒロシマ・ピース・センターを設立した人物だ。
谷本牧師は、1946年8月31日号の『ニューヨーカー』に掲載されたルポ、『ヒロシマ』の登場人物のひとりとなったことで、米国で一躍有名になる。全ページをひとつの記事にあてるという、前代未聞のこの号は、1日で約30万部が売れた。その後十数カ国で翻訳されて読み継がれ、学校教材としても使われている。著者のジョン・ハーシーはこの本の印税のほとんどを、広島復興のために寄付したそうだ。
この記事をきっかけに、谷本牧師は1948年9月、米国の教会に招かれて渡米する。15カ月間にわたって31州256都市で講演を行ない、広島の惨状と平和を訴えた。そうした活動を続ける中で、パール・バックやアインシュタイン博士など、核兵器の使用に異議を唱えるさまざまな人物と出会うことになる。
しかし戦後の6年8カ月間、占領軍によるメディア規制が敷かれていた日本国内では、原爆被害の実情も、谷本牧師の活動もよく知られていなかった。
ヒロシマ支援を米国市民に呼びかける。
ノーマン・カズンズ氏
谷本清牧師は、ケロイドを負った年頃の娘たちに心を痛めていた。被爆者の研究はするが診療は行なわないABCC(原爆障害調査委員会)に、被爆者たちは憤慨していた。
治療には莫大な費用がかかる。作家の真杉静江さんらの募金活動によって、国内で20人ほどの治療が行なわれたが、谷本牧師は米国で治療を受けさせてやれないかと考えた。その相談を受けたのが、NYの文芸誌『サタデー・レビュー』編集長、ノーマン・カズンズ氏(1915~1990年)である。
1949年に広島を訪れて原爆孤児の生活に衝撃を受けたカズンズ氏は、ルポ『4年後のヒロシマ』を発表して、米国市民に「精神養子運動」を呼びかけた。すぐに数百組の“親子”が生まれ、里親たちは養育費のほか、誕生日や祝い事にはカードを贈って孤児の成長を支えた。これに刺激を受けて、日本国内における精神養子運動も盛り上がった。
カズンズ氏は原爆投下の日、世界が全く新しい時代に入ってしまったことを感じたという。「真の平和を実現するには、世界市民の意識を高めて人類がひとつにならなければ」という思いを強め、世界連邦運動をはじめとする平和活動に尽くした。
カズンズ氏はヒロシマ・メイデン(原爆乙女)への義援金を募るため、谷本牧師をテレビ番組『This is Your Life』に出演させた。本人には予告なしで、思いがけない人に対面させる番組だ。
なんとそこで、谷本牧師とその家族は、原爆を投下したエノラ・ゲイの飛行士だったロバート・ルイス氏と対面したのである。
番組でルイス氏は「おお神よ、私たちは何ということをしたのか。そう思い、この言葉を飛行日誌に書きました」と涙をこぼした。谷本牧師の娘である近藤紘子さんは、「原爆を落とした人は悪い人と信じていた自分にとって、人生を変える経験だった」と著書の中で述懐している。紘子さん(当時10歳)は「この人も罪の意識に苛まれ、苦しんでいるんだ」と感じ、ルイス氏のそばに行きそっと手をつないだという。番組は大反響だった。手紙が殺到し、寄付金5万ドルが集まり、ヒロシマ・メイデンは米国民に深い印象を残した。米国では最近でも、彼女たちを題材としたドラマや舞台劇が作られている。
海を渡り治療を受ける。
ヒロシマ・メイデン
カズンズ氏は25人の原爆乙女を米国に招いたが、これをめぐる日本人の心情は複雑なものだった。「敵国だったアメリカで治療を行なうなんて」「なぜ若い娘ばかり扱うのか」という批判もあった。
渡米した時の思いを山岡さんはこう語る。
「“敵国に行ったら殺されるよ”と脅かす人もいましたが、私には“治せるなら、原爆を落とした国が治すのが当然”という気持ちがありました。米国のことは“こんちくしょう”と思ってましたよ」
そんな彼女たちを温かく迎えたのは、クエーカー教徒を中心としたボランティアの家庭だ。“ヒロシマ・メイデン(原爆乙女)”たちは1年半の間、一般市民の家庭にホームステイしながら、ニューヨークのマウント・サイナイ病院で治療を受けた。時には反日感情にさらされることもあった。
「“お前がこうなったのは真珠湾攻撃の報いだ”と言われたこともあります。でも英語がわからなかったから、ただにこにこしていた。それでよかったんだと思います」。山岡さんは、そう振り返る。
戦後10年。さまざまな感情が渦巻く中、言葉もわからない米国で大掛かりな手術を受けることが、容易でなかったことは想像できる。しかしおおらかで陽気な米国文化の中で、彼女たちは人々とふれあい、のびのびと外出したり、生まれて初めてダンスを体験したりした。その経験は、彼女たちを強くし、希望を与えた。当時を知る人はこう語る。
「彼女たちは不運な身の上にめげず、積極的で明るかった。その前向きな姿に、私たちアメリカ人は非常に感心しました。彼女たちを見て、日本に対する印象が変わった人も多かったんですよ」
原爆乙女の米国治療のニュースは、日本でも話題となった。彼女たちが帰国した翌57年、日本で原爆医療法が制定された。
生きて、語り続ける
山岡さんは、米国で27回の手術を経て、首を動かせるようになった。担当してくれた医師は、ドイツで医学を学んだユダヤ人だった。
「アメリカ人が“I'm sorry.”と言ってくれたことで、人を憎まず戦争を憎もうと思いました。戦争さえなければ、互いの国を憎むことはありません」。その気持ちを、語り部として伝えている。平和な世の中にしていくために何をすればいいかと聞かれると、「自分の国が何をしているか、よく考えること」「はっきり自分の考えを言えるようになること」と答えているそうだ。
世論調査(NHK調べ)によれば、日本では48%、米国では56%の人が、「今後、核戦争の可能性がある」と答えている。また、広島への原爆投下の是非については、米国では肯定派と否定派が半々だ。ひとりでも多くの人が広島を訪ね、あるいは被爆者の体験を聞くことで、その数字は少しずつ動くのではないだろうか。
「“聞いてよかった、また話して”と言ってもらうたびに、来年まで生きていなくちゃと思うの」と言う山岡さんの言葉が、耳に残った。
ヒロシマからアメリカ、そして世界へ。
原爆投下から10年が経った1955年5月、
25人の若き日本女性が、アメリカへ旅立った。
彼女たちは、広島で被爆して顔や体にケロイドを負ったヒロシマ・メイデン(原爆乙女)。
この日から約1年半にわたってアメリカ東海岸に滞在し、
延べ133回の整形手術を受けて帰国した。
この治療を可能にしたキーパーソンが、2人いる。
広島・流川教会の谷本清牧師と、米国のジャーナリスト、ノーマン・カズンズ氏だ。
ともに強い信念をもち、終生、国境を超えて平和活動に尽くした人物だ。
ヒロシマ・メイデンのひとりだった山岡ミチコさんは、
被爆体験の貴重な語り部として活動している。
山岡さんのお話をうかがいながら、当時を振り返る。
2005年夏、ヒロシマで。
山岡ミチコさん
「私は多くの人が酷い亡くなり方をしたのを、この目で見ました。人類が同じ過ちを犯さないために、こうしてお話ししてるんですよ。平和を当たり前と思わないで欲しいんです。私が思うに、過去の戦争でどちらが悪かったと決めつけるとか、やられたらやり返すという考え方をするのはいけない。両方の国が手をつないで、核兵器のない世の中にしていくべきなんです。みなさんには自分の国に帰ってからも、このことを考えるようにお願いします」
米国ワシントンDC州から来日した高校生たちが、真剣に耳を傾けている。声の主は、被爆証言者の山岡ミチコさんだ。/P>
日本人にはもちろん、海外から広島を訪れる人々にも、被爆体験を語っている。米国の高校生には誤解を与えて気持ちを傷つけることのないよう気遣ってはいるが、それでも被爆の実情に大変なショックを受けたり、米国の政策は間違っていないと興奮したりする者もいるという。
山岡さんと米国との個人的な関わりは、ヒロシマ・メイデン(原爆乙女)のひとりとして渡米した1955年に遡る。
ヒロシマの代表として平和を訴える。
谷本清牧師
山岡さんは15歳で被爆して以来、母と2人、貧困と差別に苦しんだ。家もなくなり、医者にもかかれなかった。就職もままならず、許嫁とは破談になってしまった。山岡さんのように体と心に傷を負い、ひっそりと暮らしていた若い女性が、当時の広島にはたくさんいた。
そんな被爆者たちの精神的支柱となっていたのが、自らも家族も被爆した、流川教会の谷本清牧師(1909~1986年)である。「広島は人類初の原爆の被爆地という立場から、世界平和に永遠に貢献する使命がある」と考え、後に(財)ヒロシマ・ピース・センターを設立した人物だ。
谷本牧師は、1946年8月31日号の『ニューヨーカー』に掲載されたルポ、『ヒロシマ』の登場人物のひとりとなったことで、米国で一躍有名になる。全ページをひとつの記事にあてるという、前代未聞のこの号は、1日で約30万部が売れた。その後十数カ国で翻訳されて読み継がれ、学校教材としても使われている。著者のジョン・ハーシーはこの本の印税のほとんどを、広島復興のために寄付したそうだ。
この記事をきっかけに、谷本牧師は1948年9月、米国の教会に招かれて渡米する。15カ月間にわたって31州256都市で講演を行ない、広島の惨状と平和を訴えた。そうした活動を続ける中で、パール・バックやアインシュタイン博士など、核兵器の使用に異議を唱えるさまざまな人物と出会うことになる。
しかし戦後の6年8カ月間、占領軍によるメディア規制が敷かれていた日本国内では、原爆被害の実情も、谷本牧師の活動もよく知られていなかった。
ヒロシマ支援を米国市民に呼びかける。
ノーマン・カズンズ氏
谷本清牧師は、ケロイドを負った年頃の娘たちに心を痛めていた。被爆者の研究はするが診療は行なわないABCC(原爆障害調査委員会)に、被爆者たちは憤慨していた。
治療には莫大な費用がかかる。作家の真杉静江さんらの募金活動によって、国内で20人ほどの治療が行なわれたが、谷本牧師は米国で治療を受けさせてやれないかと考えた。その相談を受けたのが、NYの文芸誌『サタデー・レビュー』編集長、ノーマン・カズンズ氏(1915~1990年)である。
1949年に広島を訪れて原爆孤児の生活に衝撃を受けたカズンズ氏は、ルポ『4年後のヒロシマ』を発表して、米国市民に「精神養子運動」を呼びかけた。すぐに数百組の“親子”が生まれ、里親たちは養育費のほか、誕生日や祝い事にはカードを贈って孤児の成長を支えた。これに刺激を受けて、日本国内における精神養子運動も盛り上がった。
カズンズ氏は原爆投下の日、世界が全く新しい時代に入ってしまったことを感じたという。「真の平和を実現するには、世界市民の意識を高めて人類がひとつにならなければ」という思いを強め、世界連邦運動をはじめとする平和活動に尽くした。
カズンズ氏はヒロシマ・メイデン(原爆乙女)への義援金を募るため、谷本牧師をテレビ番組『This is Your Life』に出演させた。本人には予告なしで、思いがけない人に対面させる番組だ。
なんとそこで、谷本牧師とその家族は、原爆を投下したエノラ・ゲイの飛行士だったロバート・ルイス氏と対面したのである。
番組でルイス氏は「おお神よ、私たちは何ということをしたのか。そう思い、この言葉を飛行日誌に書きました」と涙をこぼした。谷本牧師の娘である近藤紘子さんは、「原爆を落とした人は悪い人と信じていた自分にとって、人生を変える経験だった」と著書の中で述懐している。紘子さん(当時10歳)は「この人も罪の意識に苛まれ、苦しんでいるんだ」と感じ、ルイス氏のそばに行きそっと手をつないだという。番組は大反響だった。手紙が殺到し、寄付金5万ドルが集まり、ヒロシマ・メイデンは米国民に深い印象を残した。米国では最近でも、彼女たちを題材としたドラマや舞台劇が作られている。
海を渡り治療を受ける。
ヒロシマ・メイデン
カズンズ氏は25人の原爆乙女を米国に招いたが、これをめぐる日本人の心情は複雑なものだった。「敵国だったアメリカで治療を行なうなんて」「なぜ若い娘ばかり扱うのか」という批判もあった。
渡米した時の思いを山岡さんはこう語る。
「“敵国に行ったら殺されるよ”と脅かす人もいましたが、私には“治せるなら、原爆を落とした国が治すのが当然”という気持ちがありました。米国のことは“こんちくしょう”と思ってましたよ」
そんな彼女たちを温かく迎えたのは、クエーカー教徒を中心としたボランティアの家庭だ。“ヒロシマ・メイデン(原爆乙女)”たちは1年半の間、一般市民の家庭にホームステイしながら、ニューヨークのマウント・サイナイ病院で治療を受けた。時には反日感情にさらされることもあった。
「“お前がこうなったのは真珠湾攻撃の報いだ”と言われたこともあります。でも英語がわからなかったから、ただにこにこしていた。それでよかったんだと思います」。山岡さんは、そう振り返る。
戦後10年。さまざまな感情が渦巻く中、言葉もわからない米国で大掛かりな手術を受けることが、容易でなかったことは想像できる。しかしおおらかで陽気な米国文化の中で、彼女たちは人々とふれあい、のびのびと外出したり、生まれて初めてダンスを体験したりした。その経験は、彼女たちを強くし、希望を与えた。当時を知る人はこう語る。
「彼女たちは不運な身の上にめげず、積極的で明るかった。その前向きな姿に、私たちアメリカ人は非常に感心しました。彼女たちを見て、日本に対する印象が変わった人も多かったんですよ」
原爆乙女の米国治療のニュースは、日本でも話題となった。彼女たちが帰国した翌57年、日本で原爆医療法が制定された。
生きて、語り続ける
山岡さんは、米国で27回の手術を経て、首を動かせるようになった。担当してくれた医師は、ドイツで医学を学んだユダヤ人だった。
「アメリカ人が“I'm sorry.”と言ってくれたことで、人を憎まず戦争を憎もうと思いました。戦争さえなければ、互いの国を憎むことはありません」。その気持ちを、語り部として伝えている。平和な世の中にしていくために何をすればいいかと聞かれると、「自分の国が何をしているか、よく考えること」「はっきり自分の考えを言えるようになること」と答えているそうだ。
世論調査(NHK調べ)によれば、日本では48%、米国では56%の人が、「今後、核戦争の可能性がある」と答えている。また、広島への原爆投下の是非については、米国では肯定派と否定派が半々だ。ひとりでも多くの人が広島を訪ね、あるいは被爆者の体験を聞くことで、その数字は少しずつ動くのではないだろうか。
「“聞いてよかった、また話して”と言ってもらうたびに、来年まで生きていなくちゃと思うの」と言う山岡さんの言葉が、耳に残った。
2009年08月10日
平和への思い新たに=犠牲者悼み「たいまつ行列」-長崎
平和への思い新たに=犠牲者悼み「たいまつ行列」-長崎
2009年8月9日(日)21時34分配信 時事通信
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-09X651/1.htm
64回目の原爆忌を迎えた長崎市では9日夜、カトリック信徒ら約1000人が、火をともしたたいまつを手に、平和への思いを新たに爆心地付近を約1キロにわたり行進した。幻想的な炎が夕闇に浮かび、街中は厳かな雰囲気に包まれた。
参加者は午後7時20分すぎ、平和祈念式典会場となった平和公園を出発。浦上天主堂までの道のり約1キロを「祈りの言葉」を唱えながら歩いた。列には昨年に続き、原爆で焼け焦げたマリア像も加わった。
参加した長崎市の主婦木本千尋さん(58)は「亡くなった方の冥福を祈りながら歩きました。平和を大切にしていきたい」と話した。
2009年8月9日(日)21時34分配信 時事通信
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-09X651/1.htm
64回目の原爆忌を迎えた長崎市では9日夜、カトリック信徒ら約1000人が、火をともしたたいまつを手に、平和への思いを新たに爆心地付近を約1キロにわたり行進した。幻想的な炎が夕闇に浮かび、街中は厳かな雰囲気に包まれた。
参加者は午後7時20分すぎ、平和祈念式典会場となった平和公園を出発。浦上天主堂までの道のり約1キロを「祈りの言葉」を唱えながら歩いた。列には昨年に続き、原爆で焼け焦げたマリア像も加わった。
参加した長崎市の主婦木本千尋さん(58)は「亡くなった方の冥福を祈りながら歩きました。平和を大切にしていきたい」と話した。
2009年08月10日
長崎原爆忌「核兵器なき世界へ、ともに」
2009年8月9日(日)12時13分配信 読売新聞
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20090809-00436/1.htm
長崎は9日、被爆から64回目の原爆忌を迎えた。
爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開かれ、被爆者や遺族、麻生首相ら約6000人が参列した。田上(たうえ)富久市長は長崎平和宣言で、オバマ米大統領がプラハ演説で唱えた「核兵器のない世界」を支持し、世界全体で核廃絶へともに歩むよう呼び掛けた。
式典には、秋葉忠利広島市長に加え、過去最多の29か国の駐日大使らも参加。この1年間に亡くなったり、死亡が確認されたりした原爆死没者3304人の死没者名簿3冊が、平和祈念像前の奉安箱に納められた。名簿は計150冊、記載者数は14万9266人となった。被爆者や遺族、児童生徒らの代表が献花し、原爆が投下された午前11時2分、「長崎の鐘」が響く中、参列者らが1分間、黙とうをささげた。
平和宣言で、田上市長は北朝鮮の核実験を非難した上で、核拡散防止条約(NPT)で核保有国と認定されている米露英仏中の5か国が核兵器を削減し、核軍縮の責務を果たすよう訴えた。5か国と、核を保有または開発などが疑われるインド、パキスタン、北朝鮮、イスラエル、イランの指導者の名を挙げ、「長崎へ来てください」と要望し、「犠牲者の無念の思いに、だれもが心ふるえるでしょう」と語りかけた。
続きを読む
2009年08月09日
“ヒロシマ”をさがそう~市民とつくる被爆地図~
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/index.html
被爆から62年が経過し被爆者の平均年齢は74歳を超え(2008年2月現在)、
被爆体験の継承や風化の問題がより深刻になってきています。
NHK広島放送局では、およそ160件におよぶ被爆建物、被爆橋梁、被爆樹木、慰霊碑など、
原爆を象徴的に物語る“ヒロシマ”を紹介し、市民の皆さまが守り続けてきた思いを伝え、
平和へのメッセージを発信します。
皆さまからの感想とともにお寄せいただいたエピソードや新たな情報をサイトに追加掲載し、
皆さまといっしょに“ヒロシマ”を記録し、後世に残す“被爆地図”をつくっていきます。
被爆から62年が経過し被爆者の平均年齢は74歳を超え(2008年2月現在)、
被爆体験の継承や風化の問題がより深刻になってきています。
NHK広島放送局では、およそ160件におよぶ被爆建物、被爆橋梁、被爆樹木、慰霊碑など、
原爆を象徴的に物語る“ヒロシマ”を紹介し、市民の皆さまが守り続けてきた思いを伝え、
平和へのメッセージを発信します。
皆さまからの感想とともにお寄せいただいたエピソードや新たな情報をサイトに追加掲載し、
皆さまといっしょに“ヒロシマ”を記録し、後世に残す“被爆地図”をつくっていきます。
2009年08月08日
【平和への願いを込めて】
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/97abom/peace/index.html
ヒロシマからあなたへの手紙
核兵器のない地球へ
中国新聞社は、被爆地に本社がある新聞社として、若い人たちに被爆の体験を正しく伝え、その教訓を次の時代に引き継いでもらおうと、被爆50周年記念事業の1つとしてこの「手紙」をまとめました。広島を訪れた若い人が、この街で1945年8月6日に何が起きたのかを知り、 21世紀を生きる時に少しでも役立ててほしいという願いをこめました。
中国新聞社は、半世紀にわたり被爆地・広島が体験したことを記録し、その痛切な願いを世界へ向け発信してきました。核開発が続いた戦後世界の動きも、その体験に根ざして見つめ、人類の生存と地球環境にかかわる問題として警告する報道をしてきました。
この「手紙」は、中国新聞が原爆・平和報道50年の蓄積をもとにして作製した冊子「核兵器のない地球へ」を基に作りました。今、学校教育の中で新聞を活用する運動(NIE)も進められています。この「手紙」が平和教育などを通じて、ヒロシマと若い人たちとの対話の出発点になればと考えています。
1.若いあなたへ 8.世界へ移り住んだ被爆者
2.地球号の航海士はあなた 9.核兵器の恐怖を体験した人々
3.私たちの国の長く苦い思い出 10.人類の未来に残された核兵器
4.アラモゴードで生まれた原子爆弾 11.世界のヒバクシャたち
5.きのこ雲の下でおきたこと 12.戦争と原爆のもたらした決意
6.もう一つの「見えない爆撃」 13.よみがえった街で考えること
7.死者はコンピューターの中に 14.核兵器のない地球への航海図
ヒロシマからあなたへの手紙
核兵器のない地球へ
中国新聞社は、被爆地に本社がある新聞社として、若い人たちに被爆の体験を正しく伝え、その教訓を次の時代に引き継いでもらおうと、被爆50周年記念事業の1つとしてこの「手紙」をまとめました。広島を訪れた若い人が、この街で1945年8月6日に何が起きたのかを知り、 21世紀を生きる時に少しでも役立ててほしいという願いをこめました。
中国新聞社は、半世紀にわたり被爆地・広島が体験したことを記録し、その痛切な願いを世界へ向け発信してきました。核開発が続いた戦後世界の動きも、その体験に根ざして見つめ、人類の生存と地球環境にかかわる問題として警告する報道をしてきました。
この「手紙」は、中国新聞が原爆・平和報道50年の蓄積をもとにして作製した冊子「核兵器のない地球へ」を基に作りました。今、学校教育の中で新聞を活用する運動(NIE)も進められています。この「手紙」が平和教育などを通じて、ヒロシマと若い人たちとの対話の出発点になればと考えています。
1.若いあなたへ 8.世界へ移り住んだ被爆者
2.地球号の航海士はあなた 9.核兵器の恐怖を体験した人々
3.私たちの国の長く苦い思い出 10.人類の未来に残された核兵器
4.アラモゴードで生まれた原子爆弾 11.世界のヒバクシャたち
5.きのこ雲の下でおきたこと 12.戦争と原爆のもたらした決意
6.もう一つの「見えない爆撃」 13.よみがえった街で考えること
7.死者はコンピューターの中に 14.核兵器のない地球への航海図
2009年08月07日
ヒバクシャからの手紙
http://www.nhk.or.jp/hiroshima/tegami/index.html
NHK広島放送局では、被爆体験を後世に語り継ぐため、平成19年から番組「ヒバクシャからの手紙」を放送しています。
被爆者の方々に手紙を寄せてもらい、その思いを朗読で伝えました。
昨年は、全国そして海外の被爆者から389通の手紙が寄せられました。
また、10代~30代の若い方を中心に1000通以上のメールやFAXをいただきました。
こうした視聴者の声を受けて、今年も8月に、全国放送します。
■ 放送予定 ■
8月8日(土) 午後11:30~午前1:00 <総合・ラジオ第1>全国放送
NHK広島放送局では、被爆体験を後世に語り継ぐため、平成19年から番組「ヒバクシャからの手紙」を放送しています。
被爆者の方々に手紙を寄せてもらい、その思いを朗読で伝えました。
昨年は、全国そして海外の被爆者から389通の手紙が寄せられました。
また、10代~30代の若い方を中心に1000通以上のメールやFAXをいただきました。
こうした視聴者の声を受けて、今年も8月に、全国放送します。
■ 放送予定 ■
8月8日(土) 午後11:30~午前1:00 <総合・ラジオ第1>全国放送
2009年08月07日
ヒロシマ新聞 ~失われた空白の二日間~
原爆投下で発行できなかった1945年8月7日付けの新聞を、現在の視点で取材、編集。
http://www.hiroshima-shinbun.com/
このサイトは被爆五十年目の年に制作されたヒロシマ新聞に、
二〇〇五年に新たな情報を加え再構成したものです。
ヒロシマ新聞とは、原爆投下で発行できなかった一九四五年八月七日付けの新聞を、
現在の視点で取材、編集したものです。一日も早い核兵器廃絶を願って…。
核兵器廃絶を目指して
(1995年ヒロシマ新聞からのメッセージ)
原爆投下の翌日、広島に新聞は配達されなかった・・・・
http://www.hiroshima-shinbun.com/editors_note/editors_note.html
http://www.hiroshima-shinbun.com/
このサイトは被爆五十年目の年に制作されたヒロシマ新聞に、
二〇〇五年に新たな情報を加え再構成したものです。
ヒロシマ新聞とは、原爆投下で発行できなかった一九四五年八月七日付けの新聞を、
現在の視点で取材、編集したものです。一日も早い核兵器廃絶を願って…。
核兵器廃絶を目指して
(1995年ヒロシマ新聞からのメッセージ)
原爆投下の翌日、広島に新聞は配達されなかった・・・・
http://www.hiroshima-shinbun.com/editors_note/editors_note.html
2009年08月06日
2009年08月06日
平和宣言 2009
平和記念式典での秋葉広島市長の平和宣言です
広島市HP
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1110537278566/index.html
広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。
平 和 宣 言
人類絶滅兵器・原子爆弾が広島市民の上に投下されてから64年、どんな言葉を使っても言い尽せない被爆者の苦しみは今でも続いています。64年前の放射線が未(いま)だに身体を蝕(むしば)み、64年前の記憶が昨日のことのように蘇(よみがえ)り続けるからです。
幸いなことに、被爆体験の重みは法的にも支えられています。原爆の人体への影響が未(いま)だに解明されていない事実を謙虚に受け止めた勇気ある司法判断がその好例です。日本国政府は、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策を充実すると共に、今こそ省庁の壁を取り払い、「こんな思いを他(ほか)の誰(だれ)にもさせてはならぬ」という被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきです。
今年4月には米国のオバマ大統領がプラハで、「核兵器を使った唯一の国として」、「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」があることを明言しました。核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました。
それに応(こた)えて私たちには、オバマ大統領を支持し、核兵器廃絶のために活動する責任があります。この点を強調するため、世界の多数派である私たち自身を「オバマジョリティー」と呼び、力を合せて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。その思いは、世界的評価が益々(ますます)高まる日本国憲法に凝縮されています。
全世界からの加盟都市が3,000を超えた平和市長会議では、「2020ビジョン」を具体化した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を、来年のNPT再検討会議で採択して貰(もら)うため全力疾走しています。採択後の筋書は、核実験を強行した北朝鮮等、全(すべ)ての国における核兵器取得・配備の即時停止、核保有国・疑惑国等の首脳の被爆地訪問、国連軍縮特別総会の早期開催、2015年までの核兵器禁止条約締結を目指す交渉開始、そして、2020年までの全(すべ)ての核兵器廃絶を想定しています。明日から長崎市で開かれる平和市長会議の総会で、さらに詳細な計画を策定します。
2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからですし、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果したことにはならないからです。
核兵器廃絶を視野に入れ積極的な活動を始めたグローバル・ゼロや核不拡散・核軍縮に関する国際委員会等、世界的影響力を持つ人々にも、2020年を目指す輪に加わって頂きたいと願っています。
対人地雷の禁止、グラミン銀行による貧困からの解放、温暖化の防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつあります。その芽を伸ばし、さらに大きな問題を解決するためには、国連の中にこれら市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要があります。例えば、これまで戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、そして、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案です。
被爆64周年の平和記念式典に当り、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の多数派の市民そして国々と共に、核兵器のない世界実現のため渾身(こんしん)の力を振り絞ることをここに誓います。
最後に、英語で世界に呼び掛けます。
We have the power. We have the responsibility. And we are the Obamajority.
Together, we can abolish nuclear weapons. Yes, we can.
2009年(平成21年)8月6日
広島市長 秋 葉 忠 利
(注)英語部分の訳は次のとおりです。
私たちには力があります。私たちには責任があります。そして、私たちはオバマジョリティーです。
力を合せれば核兵器は廃絶できます。絶対にできます。
広島市HP
http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1110537278566/index.html
広島市は毎年8月6日に、原爆死没者への追悼とともに核兵器廃絶と世界恒久平和の実現を願って平和記念式典を行い、広島市長が「平和宣言」を世界に向けて発表しています。広島・長崎の悲惨な体験を再び世界の人々が経験することのないよう、核兵器をこの地球上からなくし、いつまでも続く平和な世界を確立しようと、これからも平和宣言は訴え続けていきます。
平 和 宣 言
人類絶滅兵器・原子爆弾が広島市民の上に投下されてから64年、どんな言葉を使っても言い尽せない被爆者の苦しみは今でも続いています。64年前の放射線が未(いま)だに身体を蝕(むしば)み、64年前の記憶が昨日のことのように蘇(よみがえ)り続けるからです。
幸いなことに、被爆体験の重みは法的にも支えられています。原爆の人体への影響が未(いま)だに解明されていない事実を謙虚に受け止めた勇気ある司法判断がその好例です。日本国政府は、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め高齢化した被爆者の実態に即した援護策を充実すると共に、今こそ省庁の壁を取り払い、「こんな思いを他(ほか)の誰(だれ)にもさせてはならぬ」という被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきです。
今年4月には米国のオバマ大統領がプラハで、「核兵器を使った唯一の国として」、「核兵器のない世界」実現のために努力する「道義的責任」があることを明言しました。核兵器の廃絶は、被爆者のみならず世界の大多数の市民並びに国々の声であり、その声にオバマ大統領が耳を傾けたことは、「廃絶されることにしか意味のない核兵器」の位置付けを確固たるものにしました。
それに応(こた)えて私たちには、オバマ大統領を支持し、核兵器廃絶のために活動する責任があります。この点を強調するため、世界の多数派である私たち自身を「オバマジョリティー」と呼び、力を合せて2020年までに核兵器の廃絶を実現しようと世界に呼び掛けます。その思いは、世界的評価が益々(ますます)高まる日本国憲法に凝縮されています。
全世界からの加盟都市が3,000を超えた平和市長会議では、「2020ビジョン」を具体化した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を、来年のNPT再検討会議で採択して貰(もら)うため全力疾走しています。採択後の筋書は、核実験を強行した北朝鮮等、全(すべ)ての国における核兵器取得・配備の即時停止、核保有国・疑惑国等の首脳の被爆地訪問、国連軍縮特別総会の早期開催、2015年までの核兵器禁止条約締結を目指す交渉開始、そして、2020年までの全(すべ)ての核兵器廃絶を想定しています。明日から長崎市で開かれる平和市長会議の総会で、さらに詳細な計画を策定します。
2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからですし、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果したことにはならないからです。
核兵器廃絶を視野に入れ積極的な活動を始めたグローバル・ゼロや核不拡散・核軍縮に関する国際委員会等、世界的影響力を持つ人々にも、2020年を目指す輪に加わって頂きたいと願っています。
対人地雷の禁止、グラミン銀行による貧困からの解放、温暖化の防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、正に発芽しつつあります。その芽を伸ばし、さらに大きな問題を解決するためには、国連の中にこれら市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要があります。例えば、これまで戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、そして、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案です。
被爆64周年の平和記念式典に当り、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の多数派の市民そして国々と共に、核兵器のない世界実現のため渾身(こんしん)の力を振り絞ることをここに誓います。
最後に、英語で世界に呼び掛けます。
We have the power. We have the responsibility. And we are the Obamajority.
Together, we can abolish nuclear weapons. Yes, we can.
2009年(平成21年)8月6日
広島市長 秋 葉 忠 利
(注)英語部分の訳は次のとおりです。
私たちには力があります。私たちには責任があります。そして、私たちはオバマジョリティーです。
力を合せれば核兵器は廃絶できます。絶対にできます。
2009年08月06日
広島に落とされた原子爆弾について調べよう
広島(ひろしま)に落(お)とされた原子爆弾(げんしばくだん)について調(しら)べよう
子ども向けの原爆解説。
広島への原爆投下時、復興の様子等。
現代の紛争の解説等も。
http://kids.s24.xrea.com/heiwa/
子ども向けの原爆解説。
広島への原爆投下時、復興の様子等。
現代の紛争の解説等も。
http://kids.s24.xrea.com/heiwa/
2009年08月06日
ピースキャンドル2009 ヒロシマ
8月6日(木)13時00分~8月6日(木)22時00分
子供たちの平和に対する夢と希望に満ちた絵で飾られたキャンドルで「平和記念公園」を明るく映し出すことにより、世界に向けてより明確に平和を発信する。
平和記念公園
原爆ドーム周辺
特定非営利活動法人 ひろしま点灯虫の会
http://www.peacecandle.or.jp/
子供たちの平和に対する夢と希望に満ちた絵で飾られたキャンドルで「平和記念公園」を明るく映し出すことにより、世界に向けてより明確に平和を発信する。
平和記念公園
原爆ドーム周辺
特定非営利活動法人 ひろしま点灯虫の会
http://www.peacecandle.or.jp/
2009年08月06日
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式
8月6日(木)8時00分~8月6日(木)8時45分
平和記念日にあたり、遺族・一般市民及び各回有志の参列のもとに、原爆死没者の霊を慰めるとともに、恒久平和の実現を祈念する。
平和記念公園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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広島平和記念式典(ひろしまへいわきねんしきてん)とは毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に広島平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典である[1]。なお正式には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」という。
平和記念日にあたり、遺族・一般市民及び各回有志の参列のもとに、原爆死没者の霊を慰めるとともに、恒久平和の実現を祈念する。
平和記念公園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
広島平和記念式典(ひろしまへいわきねんしきてん)とは毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に広島平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典である[1]。なお正式には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」という。
2009年08月05日
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
建立年月日
1952(昭和27)年8月6日
建立者 広島市
設計者
丹下健三(当時・東大助教授)
形状
材質:みかげ石「黒髪石」(石室部分)
みかげ石「稲田石」(屋根部分)(1985(昭和60)年の改築工事まではコンクリート製)
形態:屋根の部分は、はにわの家型(犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちからこの型にした) 建立の目的
世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立したもの。
碑文
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀(さいか)忠義(ただよし)) 本人揮ごう
特記事項
1.碑文の由来
諸霊の冥福を祈る気持ちを誓いの言葉に結びつけることに苦慮した当時の浜井市長の命を受けた秘書係長が、碑文の古典研究に造詣の深い広島大学の雑賀忠義教授に碑文の作成を依頼し、翌日即決しました。
2.碑文の趣旨
碑文については主語をめぐるさまざまな議論がありましたが、広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」と記しています。
3.原爆死没者名簿
中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2007(平成19)年8月6日現在で、91冊(253,008人の名前が記帳された90冊と「氏名不詳者 多数」と記された1冊)になっています。
2009年08月05日
旧本川(きゅうほんかわ)国民学校

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
旧校舎竣工年月日
1928(昭和3)年7月
新校舎・平和資料館完成年月日
1988(昭和63)年4月
形状
L字型に折れ曲がった形の鉄筋コンクリート3階建校舎の一部(広島市内で最初の鉄筋校舎)
特記事項
1.爆心地に一番近い小学校
本川国民学校(現 本川小学校)は爆心地に最も近い学校(約410m)として大きな被害を受けました。校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長ほか10人の教職員と1、2年生の子どもたち約400人のうち先生1人、生徒1人のみが奇跡的に助かりました。
2.臨時の救護所
外壁の焼け残った校舎は、翌日から臨時救護所となり負傷者であふれかえりました。また、校庭では死亡した人たちが数多く焼かれました。
3.授業の再開と校舎の建て替え
翌年2月には、最小限の補修をした校舎で授業が再開されました。
被爆校舎は、その後も補修・改修を繰り返し利用されてきましたが、1988(昭和63)年4月、新校舎の落成とともに、被爆校舎の一部と地下室だけを残して撤去されました。
4.被爆校舎の保存と平和資料館
この被爆校舎の一部と地下室は、「平和資料館」として整備・保存され、1988(昭和63)年5月開館しました。地下室を中心に当時の焼け跡が残るなど、原爆の被害を受けた状態をそのまま残し、被爆の「証」として保存されています。展示品の多くはかつての同校教師が被爆地から集めたものです。
《展示資料》
額:原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠ってください・・・」
(雑賀忠義(さいかただよし)氏の直筆)
写真パネル:30点(広島市、本川小学校の被爆状況)
被爆資料:30点(溶けたガラス、焼けたモンペなど)
5.『はだしのゲン』
中沢啓治さんが描いた『はだしのゲン』に登場する学校は、この本川小学校です。
2009年08月05日
インターネットとうろう流し2009
インターネットとうろう流し2009
Lantern Floating Ceremony 2009
世界の平和を願ってあなたのメッセージをお送りください。
Please write your peace message
for the 2009 Aug. 6 Lantern Floating Ceremony
http://www.seniornet-hiroshima.gr.jp/
併せて当日は下記の場所へパソコン、プリンタ-を持ち込み、メッセージを受け、
ホームページへ載せるとともにプリントし、とうろうに貼り付け川に流します。
日程,時間 2009年8月6日(木)メッセージ受付12:00~とうろう流し17:00~
実施場所及び目標 広島平和公園内 (元安川沿いで、原爆ドームの対岸)
レストハウスより北へ100メートルくらい行った所です。
≪主催・協力・後援≫
主 催:NPO法人(シニアネットひろしま)他ボランティア・有志
協 力:(広島市中央部商店街振興組合連合会)
後 援:広 島 市・中国新聞社・NHK広島放送局
http://www.urban.ne.jp/home/tourou/rekishi.htm
とうろう流しの始まり
昭和20年8月6日午前8時15分、世界初の原子爆弾が広島に投下されました。原爆は一瞬にして多くの命を奪いましたが、即死を免れてもひどいやけどを負った人たちが大勢いました。その人たちの多くは、その熱さと痛みに耐えかねて近くの川に次々に身を投げたと言われています。
広島、横川、己斐といった駅前を中心にヤミ市がにぎわい、中心部にやっとバラック建ての商店が建ち始めた昭和23~4年ごろ、親族や知人を原爆で失った遺族や市民たちが追善と供養のため、手作り灯ろうを川に流したのが「とうろう流し」の始まりと言われています。灯ろうには、亡くなられた方の名前(法名または俗名)と流した人の名前(施主名)を書き込むのが一般的ですが、最近では国内外から来広された方々が「平和への思い」を書かれる光景も目立つようになりました。長い歴史を持つ「とうろう流し」は、「慰霊」と「ピースメッセージ」の両方の意味を持つようになったのです。
Lantern Floating Ceremony 2009
世界の平和を願ってあなたのメッセージをお送りください。
Please write your peace message
for the 2009 Aug. 6 Lantern Floating Ceremony
http://www.seniornet-hiroshima.gr.jp/
併せて当日は下記の場所へパソコン、プリンタ-を持ち込み、メッセージを受け、
ホームページへ載せるとともにプリントし、とうろうに貼り付け川に流します。
日程,時間 2009年8月6日(木)メッセージ受付12:00~とうろう流し17:00~
実施場所及び目標 広島平和公園内 (元安川沿いで、原爆ドームの対岸)
レストハウスより北へ100メートルくらい行った所です。
≪主催・協力・後援≫
主 催:NPO法人(シニアネットひろしま)他ボランティア・有志
協 力:(広島市中央部商店街振興組合連合会)
後 援:広 島 市・中国新聞社・NHK広島放送局
http://www.urban.ne.jp/home/tourou/rekishi.htm
とうろう流しの始まり
昭和20年8月6日午前8時15分、世界初の原子爆弾が広島に投下されました。原爆は一瞬にして多くの命を奪いましたが、即死を免れてもひどいやけどを負った人たちが大勢いました。その人たちの多くは、その熱さと痛みに耐えかねて近くの川に次々に身を投げたと言われています。
広島、横川、己斐といった駅前を中心にヤミ市がにぎわい、中心部にやっとバラック建ての商店が建ち始めた昭和23~4年ごろ、親族や知人を原爆で失った遺族や市民たちが追善と供養のため、手作り灯ろうを川に流したのが「とうろう流し」の始まりと言われています。灯ろうには、亡くなられた方の名前(法名または俗名)と流した人の名前(施主名)を書き込むのが一般的ですが、最近では国内外から来広された方々が「平和への思い」を書かれる光景も目立つようになりました。長い歴史を持つ「とうろう流し」は、「慰霊」と「ピースメッセージ」の両方の意味を持つようになったのです。
2009年08月04日
峠三吉(とうげさんきち)詩碑

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
建立年月日
1 963(昭和38)年8月6日
建立者
平和のための広島県文化会議、
峠三吉詩碑建設委員会
詩文
表:三宅一子
裏(英訳):大原三八雄(みやお)
形状
コンクリートに黒玉石を埋めた台座に高さ70cm、幅110cm、厚さ50cmの黒みかげ石が置かれ、表に峠三吉の詩文、裏面には詩の英訳が刻まれている。 建立の目的
占領軍の弾圧に屈せず、最期まで活動を続けた峠三吉の勇気と平和への熱意をたたえるとともに、彼の遺志を継ぎ、核兵器廃絶の決意を新たにする。
碑文
「ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
峠三吉」
特記事項
1.峠三吉
峠三吉は28歳の時、爆心地から3km離れた翠町の自宅で被爆しました。戦後、青年運動・文化運動を通じ次第に平和運動の先頭に立つようになり、原爆反対、平和擁護の作品を数多く発表しました。 1953(昭和28)年3月10日、国立広島療養所で手術中に死去。享年36歳でした。
2.『原爆詩集』
朝鮮戦争が始まり、占領軍による原爆反対運動への弾圧が激しさを増す中、トルーマン大統領の“朝鮮戦争に原爆使用もありうる”という声明に触発され、『原爆詩集』をまとめる決意をしました。
この作品は、1951(昭和26)年ベルリンの全世界青年学生平和祭に、日本の代表作品の一つとして送られ、世界的な反響を与えました。
碑文はこの詩集の序として書かれたものです。
2009年08月04日
岡本太郎《明日の神話》原画特別展示
8月1日(土)10時00分~8月30日(日)17時00分
平和記念日の前後に実施する、岡本太郎『明日の神話』1号原画の特別展示
広島市現代美術館
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/contents.html

平和記念日の前後に実施する、岡本太郎『明日の神話』1号原画の特別展示
広島市現代美術館
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/contents.html

2009年08月03日
平和の灯

http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
建立年月日
1964(昭和39)年8月1日
建立者
平和の灯建設委員会
設計者
丹下健三(当時・東大教授)
形状
台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現している。(高さ3m、幅13m、奥行き8m)建立の目的
水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため。
特記事項
1.灯の点火
全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。
2.燃えつづける火
この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。
3.広がる平和の灯
毎年、核兵器廃絶と被爆者援護の充実を訴えて、広島県内の市町村を一周する「平和の灯リレー」が行われています。また、1994(平成6)年に広島市で開催されたアジア競技大会の聖火に点火されるなど、各種行事において平和のシンボルとして採火されています。






